記憶の彼方のマレーシア
1995/11/14(火)
今日もまた搬入の日。朝ご飯はホテルのビュッフェです。
この日は、日本から営業担当のI氏も到着しました。
タクシーでまたマラヤ大学まで移動です。
タクシーを降りる時、この運転手のオジサン(インド系)に「夕方、17:00にここに迎えに来て」と言い残して、私たちは会場に向いました。
▲お昼に行った簡易食堂。
相変わらず今日も冷房は入っていない。暑くて汗びっしょりです。
今日もまた、一年目のK君に積極的に働いてもらいました。
昼近くなって、なぜかCHOIさんが、「今日も一緒に食べに行こう」と迎えに来て、みんなで簡易食堂に行きました。
簡易食堂という表現が正しいのか分かりませんが、まずは飲み物のコーナー、焼き物のコーナー、カレーのコーナー、麺のコーナーなどが並んでいて、好きなものを取ってそれぞれで会計し、真中のテーブルで食べる、というスタイルです。
私は一番人が並んでいた屋台で、大きなチキンがドカンと入ったカレーとナンをいただきました。
お米とカレーを手で食べている人もいて「本当に手で食べるんだ」と関心した記憶があります。
▲夜に行った屋台街。
後列がCHOIさんと奥さん。搬入は17:00に終わり、まさかいないだろう、と思いつつも、朝タクシーを降りたところまで行ってみました。
たくさんのインド系の人たちがたむろっていて、それぞれ客引きやらなにやらガヤガヤとやっています。
中から明るく手を振るオジサンがいました。朝のタクシーの運転手のオジサンです。
ちゃんと待っていてくれたんだ。一瞬でも疑って、ゴメンネ。
夜ご飯はなんでそうなったのか良く覚えていないのですが、CHOIさんと奥さんと私たちとで、ブキット・ビンタン通りの屋台街に行きました。
確か、何かのビルの駐車場が屋台街になっていました。
中華料理、マレー料理など、おなか一杯食べて、すっかりご馳走になってしまいました。
しかし、こういう屋台では、お酒は一切飲めないんですよね。
その後、奥さんは一人で帰られて、私たちはCHOIさんに連れられて、カラオケ(KTV)に行きました。
なんでそうなったんだっけ?
しかし、今思えば、当時は中国語は一切話ができなかったし、歌も一曲も歌えなかったので、な〜んてことない、カラオケでした。