記憶の彼方のマレーシア
ここからは、項目別に書いてみます。
スコールについて
スコール。あたりまえといえばあたりまえなのでしょうが、必ず一日一回一時間くらい、午後にスコールがありました。
私は大体はテントの中での仕事ですが、当然屋外で作業をする人もいて、そういう時は皆さんテントの中に入ってきて、なんだかのんびりとした時が流れていました。
知らないうちに降りだして止んでいた時もあるし、たまたま学生カフェでジュースを飲んでいるときに降りだして帰れなくなったりした時もありました。
雨がやむと太陽がカンカンと照りだして、あたりは一気に蒸し暑くなりました。
見本市会場は大学のキャンパス内の特設テントだったので、雨上がりには芝生の匂いがしました。
そんなどうでもいいことを覚えています。
いろんな人種の人たち
これもあたりまえといえばあたりまえなのですが、いろんな人種の人が、あたりまえのように仕事していて驚きました。
例えば、マレー系の女性がスカーフを巻いているのはともかくとして、真っ赤なターバンを巻いたインド系の男性が普通に働いていたり。
日本で、「宗教上の理由で、このスタイルで働きたいのです」などと言っても、許されないんじゃないかな。
多くの人たちが、お互いの違いを理解しながら暮らしている、ということを感じました。
このときは中国系、インド系の人たちとは親しくお話しする機会がありましたが、マレー系の人との接点が無かったのが残念です。
トイレについて
トイレの個室に入ると、各個室のドアを入ってすぐに、必ず長いホースのついた水道の蛇口がありました。
最初は、トイレが壊れて流れない時にこれで流すのかな、と思っていたのですが、実はイスラムの人たちのためのものだったんですね。
これも、ずいぶん後になって知りました。
中国系の人の名前について
本文でも書いたように、通訳でお手伝いに来てくれたタンさんは「陳」さん、また、親切な高級外車のCHOIさんは「徐」さんでした。
その時は全然気にもしていなかったのですが、今から考えると、彼らの名前は福建の読み方でした。
彼らは、英語、北京語、広東語、福建語、マレー語が話せると言っていました。
また、最初に出会ったLee(李)さんは、英語の学校に行ったため、中国語はどの言語も話せるけど、漢字は、自分の名前とそれ以外には簡単なものしか書けない、と言っていました。
以上に書いたことは全て、評論や、マレーシアを評価するものではなく、単純なマレーシア初心者が感じたことの羅列です。
マレーシア上級者の方々が不快に感じたら、大変申し訳ありません。
当時は、親切な人にはウラがある、と思っていたので、CHOIさんの親切にはかなり戸惑いました。
しかし今は、親切にされたら素直に心から感謝し、その親切は、日本にやって来た誰かに返し、その人がまだ別の人に返し、そうして廻りまわって、また私のところに戻ってくると信じています。
ほとんど見本市の会場から表に出ないで過ごしていた出張でしたので、「マレーシア旅行記」なんてトンデモナイ、と思いますが、マレーシア初心者のカルチャーショックと、それを楽しんで受け入れている私を感じてくれたら幸いです。
ここまで読んでくださって皆様、ありがとうございました。
おしまい。
(執筆、2002年1月)